今回のネタは、
前書いていた、温泉ブログから移植してきた記事。
丁度富岡製糸場周囲のグルメをブログに書いていた方がいたので、俺も便乗させてもらう事にした(^^)
今回はB級グルメについては触れていないので、
食べ物については、彼のブログを参考に(^^)
実に美味そうだから…\(^^)/
↓↓
http://blog.livedoor.jp/itadakirush/archives/9533948.html
今回の記事は、
以前、世界遺産登録寸前に富岡製糸場に行った時に
気になる事があったんで、
後日に調べものをして、まとめたものである。
製糸場から診療所の話題から、
無理矢理温泉を繋げたのだ(--;)
2年半前の記事なんで、ご了承を。。
……………………………………………………………………………………
(以下、当時の記事)
写真は、今回のネタの富岡製糸場跡です。
ここについての一般的な解説は、
省きます。
製糸技術や機械、技術指導は、
フランスからの講師、ブリュナーが請け負う事になり、明治5年から8年の間の3年間、日本に居留していたみたいです。
彼をサポートする為に沢山の方々が、
海の向こうから渡ってきました。
製糸場といえば「あぁ野麦峠」みたいな悲惨な印象を受けますが、ここ富岡製糸場の官営時代初めの数年に限っては、割と待遇は良かとのことで…
それどころか、福利厚生が充実していて、
医療費や教育費、食事もタダとか…
官営初期に限っては、自分の中でかなりイメージが変わった事は確かです。
尚、富岡製糸場内の各施設は今は僅かしか内部を公開していませんが、今後数十年かけて内部全ての公開を目指すとの事です。
前書きがなが~くなってしまいましたが、ここからが、書きたかった本題
数ある建物の中でも私の興味は、製糸場本体よりも、この中にある診療所です。
「なんで診療所??」かって…
長野在住の元祖温泉ナースさんには申し訳ないのですが、あっしもナースのハシクレ…
たまにゃ医療を語りたいのだよ…
ネットで検索すると、
「富岡製糸場の責任者、ブリュナーが再来日する時に技師や指導係の工女を連れてくる時に一緒に医師も連れて来て、製糸場内の診療所に常駐させた。」
「併設された診療所でフランス人医師が診療にあたった」
などの文章をよく見かけますが、その医師や医療については現地では何も記載されていません。
ちなみに、フランス人医師がこの場所に在住していた当時は、東洋医学から西洋医学への転換期真っ只中…
富岡製糸場にフランス人医師が来たのは明治5年で、
医療が家元制(みたいなもの)から西洋医学へと舵を切り、免許制になったのは明治7年です。
当時の日本では蘭学による医療がありましたが、これらはフランスやドイツなどからオランダに伝わった医学を日本に伝えたもので、「鮮度」的にはやや劣るものでした。
なので「新鮮」な完全なる西洋医療の知識を持つ外国人医師は最先端の技術者と同じです。
当時日本でも、薬剤に関しては割と即効性のある西洋薬が輸入され始めていましたが、その恩恵に与れるのはごく一部の人達だけだったのでしょう。
一般民衆は旧来の和漢薬剤が中心でした。
これが和漢製剤…
漢方薬より数段劣る効能しか無いらしい。
(参考画像、和漢薬の画像は「房総のむら」にて)
ここに居る医師はフランス人…扱い慣れない和漢薬剤や漢方薬よりも扱い慣れている高価な西洋薬剤を選択したことは容易に想像できます。
つまり、ここの女工達は現在で例えたら、
有名な大学病院で未知の最先端医療で
診察や治療を受け、
最先端の薬を処方されていた
という事に相当するかと。
しかも無料で( ̄▽ ̄;)
これは凄い事だね(@_@)
不思議な事に、初期の富岡製糸場での医療は
その当時の最先端の筈なのに、
その記録や情報が殆ど無いのです。
野球やサッカーに例えたら、
アブラの乗った現役バリバリの
年俸ウン十億位の有名外人選手が
npbやJリーグに来たようなものですよ( ̄▽ ̄;)
そのレベルの選手なら、例え日本の習慣や環境が合わず年俸に見合う成績を残せなかったとしても、
ホームランやシュートで何点かは決め、
さすがだ…!!と日本人を唸らせる一瞬の輝きは見せるでしょう…
変な例えになりましたが(^^;
それだけの人物なら、富岡製糸場に勤務した僅か3年の間でも何かしらの足跡は残した筈で…
いや、逆に残さないと不自然ですねぇ~( ロ_ロ)ゞ
と、いうわけで、いろいろ調べてみました。
(あっしは温泉スタンドといいホントにマイナーなモノにしか興味を示さないのね…(^^;))
調べるにつれ、段々と面白い事が判明していきました。
まず、富岡製糸場に常駐したフランス人医師は、
僅か3年の間に、どうやら何人か交代していたらしく、1人ではなかった事が判明…
名前を確認出来たのは、
フランソワ・マイエ医師と
ジャンポール・ヴィダル医師
お二方とも日本の医療史ばかりか、
富岡製糸場の表の歴史には全くといっていいほど出てこないマイナーな方々です。
あちらこちらのサイトから、
手掛かりとなる資料をみつけ、つなぎ合わせて年表を作ってみました。
明治3年…………国がブリュナー氏と契約
明治4年11月…ブリュナー氏、フランス人関係者を10数
人 と一緒に再来日。
明治5年8月…ヴィダル氏、来日し新潟の病院に。
明治5年10月…富岡製糸場操業開始。この月はヴィダル 氏は箱根に居たらしい。
明治6年1月…富岡製糸場にフランス人医師・マイエ氏が常駐する
明治7年 …西洋医学教育が発足、医師が免許制へ
この春まで、ヴィダル氏は新潟の病院に籍があった。
明治7年5月…マイエ氏、診療所を辞め、代わりにヴィダル氏が常駐医となる。
明治8年 …ドイツからベルツ医師、来日
… 年末にブリュナー氏と、医師のヴィダル氏、富岡製糸場との契約を解除。
明治9年 …ヴィダル氏、横浜造船所に勤務。明治
11年に帰国。マイエ氏、生野鉱山へ勤務。
ちなみに、マイエ氏、ヴィダル氏共に、所属時期に異説があり、マイエ氏が明治7年の末にも所属したという文献が生野鉱山関係の資料にあり。
又、マイエ氏ヴィダル氏共に、
富岡製糸場辞典という本では、製糸場を辞めた後
直ぐに帰国したという記載があり、資料としてどれが正しいかは不明です。
ヴィダル氏に関しては、
須永○一さんの著書、
「ヴィダルの上州温○紀行…富岡製○場勤務のフラ○ス人医師による○泉調査」
をはじめ、氏に関しての様々な論文があるので、多分これに具体的な時期が記載されているかと…是非読んでみたいですね。
話は元に戻ります。
まずはマイエさん。
この人は、ブリュナー氏が連れて来たフランス人医師マッセ氏が、富岡製糸場が完成する前の明治5年7月に早々と帰国してしまった為、
後任として在日中のフランス人から選ばれて、横浜造船所より明治6月1月に移ってきました。
ここで1年半程勤務した後に、
生野鉱山の診療所に移りました。
富岡製糸場が政府の模範製糸場なら、
横浜造船所は国の最重要工場。
生野鉱山は模範鉱山と言われた場所なので、
このマイエさんは、我が国の産業医のルーツになった方といって過言ではないでしょう。
生野鉱山での診療対象は、
同じフランス人技師が中心だったとの事ですが、
割と有名で、漫画「JIN」にも一瞬だけでてきた
「エノン医師」と共に、
この鉱山に勤務する日本人医師に対して西洋医学の伝授に努めたみたいです。
後年、帰国後にコレラに関する論文を発表したとか…
で、一方のヴィダルさん、
あっしの興味は、ズバリこの方です。
この方はマイエ氏の後に所属された方で、
明治5年8月に来日、
当初は新潟病院(現在の新潟大学医歯学総合病院)に医師兼初代教授として勤務し、明治7年春まで在籍。
明治7年半ばから明治8年に富岡製糸場に在籍。
年末にここを去った後は明治9年から11年迄横浜造船所に勤務し、辞めた後フランスに帰国しましたが、以前に南魚沼あたりでハッカの製法を地元民より教えてもらい、帰国後フランスで作ろうとしていたみたいです。
で、このヴィダルさん、年表下部に記載したとおり、
暇を見つけては、群馬県内の温泉をいろいろ調べていた事が判明(笑)
ヨーロッパでも昔から温泉治療が発達しており、
当然この医師も群馬をはじめ日本の豊富な温泉資源に目をつけていたのは自然な流れでしょう。
来日した明治5年に、
箱根の大涌谷を手始めに関東の各温泉を巡り、
「あーじゃないこーじゃない」言いながら、
あちらこちらの温泉を汲んで片っぱしサンプリングをしていたらしいです。
やっている事、我々温泉マニアと変わらないかも(^^)
温泉を汲むという事に関しては、
あっしの御先祖様みたいな方なのです(^^;
ちなみに群馬県内の温泉地でよく名前を聞く有名なベルツ医師が日本に来たのは明治8年…
日本在住期間の長さや、
新しい医学を導入したり弟子を育てたりして、
日本の医療に貢献したベルツ医師は、
御存知の通りに有名になりましたが、
それは日本の西洋医学がドイツ式に転換した情勢によるものも大きかったみたいです。
フランスやイギリス式の医療は、
ドイツ式にとって代わり、後退していきました。
特にフランスは幕府側との付き合いだったので、
明治維新後は次第に疎遠になっていった事も、背景としてあるみたいです。
(病院のカルテがドイツ語記載だったのは、この名残)
このヴィダルさんは、
群馬の各温泉で崇められているベルツさんよりも先に
日本の温泉を研究していたみたいですね…
いわばパイオニアです。
最近になり、富岡製糸場辞典という本をはじめ、幾つかの書籍が出版され、診療所の様子も僅ながら分かってきました。
でも当時の最先端医師が3人も常駐しながら、
後年迄語り継がれそうな実績が表面に出てこないという事は、やはり特筆すべき事が無かったのでしょうか…
あっしなりの推測として…
①…僅か3年間、医師1人あたりの所属が僅か1年では、技術の伝承が難しい。又、立場が寮に住む女工への指導、診療を中心とした産業医である為に地域医療への進出や交流が無かった
②…医師が数名入れ替わっている様に、契約など何らかでトラブルがあった。
③…日本語が十分出来ずコミュニケーションに難があった
④…フランス人は生き血を吸うと噂され、その風貌から工女に恐れられ、診察を拒む事があった
⑤…②③④に通ずる事であるが、当初は補助となる者が居なかった(看護職員など)
⑥…上記の様に政府の方針でドイツ医学が重要視され、フランス医学とは疎遠になっていった。
…など、考えられます。
但し、狭い密室の寮や作業場から解放される時間を多く取らせ、体を動かす様指導した事が、今現在でも工場で流れるラジオ体操のルーツになるなど、陰の実績もあります。
予防医学、産業医学のはしりとなった名医達の居た診療所…
もうちょっとクローズアップされてもいいと思ったのは、あっしだけでしょうか…
なんか、もったいないなぁ
ネットで拾えた情報は、今回はここまで(@_@)
今後機会があったら、色々調べてみたいですね。
取りあえず温泉のブログらしく温泉ネタも混ぜられて良かったです(^^)
……………………………………………………………………………………………
(振り返り)
2014年6月に書いた記事だった。
自分で言うのもなんだけど、
俺にとって一番の力作記事( ̄▽ ̄;)
一読して戴きたく、再掲載した。
このブログの影響じゃないと思うが、
富岡でのお祭りの際の仮装行列の中に、
フランス人医師に扮した仮装もあったとか(^^)
どうやらマッセさんをモデルにしたみたいだが、
彼は富岡製糸場が出来る前に日本を去ったので、
俺的にはヴィダルさんのコスプレをやって欲しかったかな(^_^ゞ
日本への貢献度ではマイエさんかな??
それにしても、
入場料金が、ここ2年で倍になったのは、勘弁願いたい(怒)
まぁ、裏にある建物が、約3年前の雪で、
見事な迄にブッ潰れてしまったんで、
その修復費用を捻出しなけりゃならないのは
十分理解出来るのだが…

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前書いていた、温泉ブログから移植してきた記事。
丁度富岡製糸場周囲のグルメをブログに書いていた方がいたので、俺も便乗させてもらう事にした(^^)
今回はB級グルメについては触れていないので、
食べ物については、彼のブログを参考に(^^)
実に美味そうだから…\(^^)/
↓↓
http://blog.livedoor.jp/itadakirush/archives/9533948.html
今回の記事は、
以前、世界遺産登録寸前に富岡製糸場に行った時に
気になる事があったんで、
後日に調べものをして、まとめたものである。
製糸場から診療所の話題から、
無理矢理温泉を繋げたのだ(--;)
2年半前の記事なんで、ご了承を。。
……………………………………………………………………………………
(以下、当時の記事)
写真は、今回のネタの富岡製糸場跡です。
ここについての一般的な解説は、
省きます。
製糸技術や機械、技術指導は、
フランスからの講師、ブリュナーが請け負う事になり、明治5年から8年の間の3年間、日本に居留していたみたいです。
彼をサポートする為に沢山の方々が、
海の向こうから渡ってきました。
製糸場といえば「あぁ野麦峠」みたいな悲惨な印象を受けますが、ここ富岡製糸場の官営時代初めの数年に限っては、割と待遇は良かとのことで…

それどころか、福利厚生が充実していて、
医療費や教育費、食事もタダとか…
官営初期に限っては、自分の中でかなりイメージが変わった事は確かです。
尚、富岡製糸場内の各施設は今は僅かしか内部を公開していませんが、今後数十年かけて内部全ての公開を目指すとの事です。
前書きがなが~くなってしまいましたが、ここからが、書きたかった本題

数ある建物の中でも私の興味は、製糸場本体よりも、この中にある診療所です。
「なんで診療所??」かって…

長野在住の元祖温泉ナースさんには申し訳ないのですが、あっしもナースのハシクレ…
たまにゃ医療を語りたいのだよ…

ネットで検索すると、
「富岡製糸場の責任者、ブリュナーが再来日する時に技師や指導係の工女を連れてくる時に一緒に医師も連れて来て、製糸場内の診療所に常駐させた。」
「併設された診療所でフランス人医師が診療にあたった」
などの文章をよく見かけますが、その医師や医療については現地では何も記載されていません。
ちなみに、フランス人医師がこの場所に在住していた当時は、東洋医学から西洋医学への転換期真っ只中…
富岡製糸場にフランス人医師が来たのは明治5年で、
医療が家元制(みたいなもの)から西洋医学へと舵を切り、免許制になったのは明治7年です。
当時の日本では蘭学による医療がありましたが、これらはフランスやドイツなどからオランダに伝わった医学を日本に伝えたもので、「鮮度」的にはやや劣るものでした。
なので「新鮮」な完全なる西洋医療の知識を持つ外国人医師は最先端の技術者と同じです。
当時日本でも、薬剤に関しては割と即効性のある西洋薬が輸入され始めていましたが、その恩恵に与れるのはごく一部の人達だけだったのでしょう。
一般民衆は旧来の和漢薬剤が中心でした。
これが和漢製剤…
漢方薬より数段劣る効能しか無いらしい。
(参考画像、和漢薬の画像は「房総のむら」にて)
ここに居る医師はフランス人…扱い慣れない和漢薬剤や漢方薬よりも扱い慣れている高価な西洋薬剤を選択したことは容易に想像できます。
つまり、ここの女工達は現在で例えたら、
有名な大学病院で未知の最先端医療で
診察や治療を受け、
最先端の薬を処方されていた
という事に相当するかと。
しかも無料で( ̄▽ ̄;)
これは凄い事だね(@_@)
不思議な事に、初期の富岡製糸場での医療は
その当時の最先端の筈なのに、
その記録や情報が殆ど無いのです。
野球やサッカーに例えたら、
アブラの乗った現役バリバリの
年俸ウン十億位の有名外人選手が
npbやJリーグに来たようなものですよ( ̄▽ ̄;)
そのレベルの選手なら、例え日本の習慣や環境が合わず年俸に見合う成績を残せなかったとしても、
ホームランやシュートで何点かは決め、
さすがだ…!!と日本人を唸らせる一瞬の輝きは見せるでしょう…
変な例えになりましたが(^^;
それだけの人物なら、富岡製糸場に勤務した僅か3年の間でも何かしらの足跡は残した筈で…
いや、逆に残さないと不自然ですねぇ~( ロ_ロ)ゞ
と、いうわけで、いろいろ調べてみました。
(あっしは温泉スタンドといいホントにマイナーなモノにしか興味を示さないのね…(^^;))
調べるにつれ、段々と面白い事が判明していきました。
まず、富岡製糸場に常駐したフランス人医師は、
僅か3年の間に、どうやら何人か交代していたらしく、1人ではなかった事が判明…
名前を確認出来たのは、
フランソワ・マイエ医師と
ジャンポール・ヴィダル医師
お二方とも日本の医療史ばかりか、
富岡製糸場の表の歴史には全くといっていいほど出てこないマイナーな方々です。
あちらこちらのサイトから、
手掛かりとなる資料をみつけ、つなぎ合わせて年表を作ってみました。
明治3年…………国がブリュナー氏と契約
明治4年11月…ブリュナー氏、フランス人関係者を10数
人 と一緒に再来日。
明治5年8月…ヴィダル氏、来日し新潟の病院に。
明治5年10月…富岡製糸場操業開始。この月はヴィダル 氏は箱根に居たらしい。
明治6年1月…富岡製糸場にフランス人医師・マイエ氏が常駐する
明治7年 …西洋医学教育が発足、医師が免許制へ
この春まで、ヴィダル氏は新潟の病院に籍があった。
明治7年5月…マイエ氏、診療所を辞め、代わりにヴィダル氏が常駐医となる。
明治8年 …ドイツからベルツ医師、来日
… 年末にブリュナー氏と、医師のヴィダル氏、富岡製糸場との契約を解除。
明治9年 …ヴィダル氏、横浜造船所に勤務。明治
11年に帰国。マイエ氏、生野鉱山へ勤務。
ちなみに、マイエ氏、ヴィダル氏共に、所属時期に異説があり、マイエ氏が明治7年の末にも所属したという文献が生野鉱山関係の資料にあり。
又、マイエ氏ヴィダル氏共に、
富岡製糸場辞典という本では、製糸場を辞めた後
直ぐに帰国したという記載があり、資料としてどれが正しいかは不明です。
ヴィダル氏に関しては、
須永○一さんの著書、
「ヴィダルの上州温○紀行…富岡製○場勤務のフラ○ス人医師による○泉調査」
をはじめ、氏に関しての様々な論文があるので、多分これに具体的な時期が記載されているかと…是非読んでみたいですね。
話は元に戻ります。
まずはマイエさん。
この人は、ブリュナー氏が連れて来たフランス人医師マッセ氏が、富岡製糸場が完成する前の明治5年7月に早々と帰国してしまった為、
後任として在日中のフランス人から選ばれて、横浜造船所より明治6月1月に移ってきました。
ここで1年半程勤務した後に、
生野鉱山の診療所に移りました。
富岡製糸場が政府の模範製糸場なら、
横浜造船所は国の最重要工場。
生野鉱山は模範鉱山と言われた場所なので、
このマイエさんは、我が国の産業医のルーツになった方といって過言ではないでしょう。
生野鉱山での診療対象は、
同じフランス人技師が中心だったとの事ですが、
割と有名で、漫画「JIN」にも一瞬だけでてきた
「エノン医師」と共に、
この鉱山に勤務する日本人医師に対して西洋医学の伝授に努めたみたいです。
後年、帰国後にコレラに関する論文を発表したとか…
で、一方のヴィダルさん、
あっしの興味は、ズバリこの方です。
この方はマイエ氏の後に所属された方で、
明治5年8月に来日、
当初は新潟病院(現在の新潟大学医歯学総合病院)に医師兼初代教授として勤務し、明治7年春まで在籍。
明治7年半ばから明治8年に富岡製糸場に在籍。
年末にここを去った後は明治9年から11年迄横浜造船所に勤務し、辞めた後フランスに帰国しましたが、以前に南魚沼あたりでハッカの製法を地元民より教えてもらい、帰国後フランスで作ろうとしていたみたいです。
で、このヴィダルさん、年表下部に記載したとおり、
暇を見つけては、群馬県内の温泉をいろいろ調べていた事が判明(笑)
ヨーロッパでも昔から温泉治療が発達しており、
当然この医師も群馬をはじめ日本の豊富な温泉資源に目をつけていたのは自然な流れでしょう。
来日した明治5年に、
箱根の大涌谷を手始めに関東の各温泉を巡り、
「あーじゃないこーじゃない」言いながら、
あちらこちらの温泉を汲んで片っぱしサンプリングをしていたらしいです。
やっている事、我々温泉マニアと変わらないかも(^^)
温泉を汲むという事に関しては、
あっしの御先祖様みたいな方なのです(^^;
ちなみに群馬県内の温泉地でよく名前を聞く有名なベルツ医師が日本に来たのは明治8年…
日本在住期間の長さや、
新しい医学を導入したり弟子を育てたりして、
日本の医療に貢献したベルツ医師は、
御存知の通りに有名になりましたが、
それは日本の西洋医学がドイツ式に転換した情勢によるものも大きかったみたいです。
フランスやイギリス式の医療は、
ドイツ式にとって代わり、後退していきました。
特にフランスは幕府側との付き合いだったので、
明治維新後は次第に疎遠になっていった事も、背景としてあるみたいです。
(病院のカルテがドイツ語記載だったのは、この名残)
このヴィダルさんは、
群馬の各温泉で崇められているベルツさんよりも先に
日本の温泉を研究していたみたいですね…
いわばパイオニアです。
最近になり、富岡製糸場辞典という本をはじめ、幾つかの書籍が出版され、診療所の様子も僅ながら分かってきました。
でも当時の最先端医師が3人も常駐しながら、
後年迄語り継がれそうな実績が表面に出てこないという事は、やはり特筆すべき事が無かったのでしょうか…
あっしなりの推測として…
①…僅か3年間、医師1人あたりの所属が僅か1年では、技術の伝承が難しい。又、立場が寮に住む女工への指導、診療を中心とした産業医である為に地域医療への進出や交流が無かった
②…医師が数名入れ替わっている様に、契約など何らかでトラブルがあった。
③…日本語が十分出来ずコミュニケーションに難があった
④…フランス人は生き血を吸うと噂され、その風貌から工女に恐れられ、診察を拒む事があった
⑤…②③④に通ずる事であるが、当初は補助となる者が居なかった(看護職員など)
⑥…上記の様に政府の方針でドイツ医学が重要視され、フランス医学とは疎遠になっていった。
…など、考えられます。
但し、狭い密室の寮や作業場から解放される時間を多く取らせ、体を動かす様指導した事が、今現在でも工場で流れるラジオ体操のルーツになるなど、陰の実績もあります。
予防医学、産業医学のはしりとなった名医達の居た診療所…
もうちょっとクローズアップされてもいいと思ったのは、あっしだけでしょうか…
なんか、もったいないなぁ

ネットで拾えた情報は、今回はここまで(@_@)
今後機会があったら、色々調べてみたいですね。
取りあえず温泉のブログらしく温泉ネタも混ぜられて良かったです(^^)
……………………………………………………………………………………………
(振り返り)
2014年6月に書いた記事だった。
自分で言うのもなんだけど、
俺にとって一番の力作記事( ̄▽ ̄;)
一読して戴きたく、再掲載した。
このブログの影響じゃないと思うが、
富岡でのお祭りの際の仮装行列の中に、
フランス人医師に扮した仮装もあったとか(^^)
どうやらマッセさんをモデルにしたみたいだが、
彼は富岡製糸場が出来る前に日本を去ったので、
俺的にはヴィダルさんのコスプレをやって欲しかったかな(^_^ゞ
日本への貢献度ではマイエさんかな??
それにしても、
入場料金が、ここ2年で倍になったのは、勘弁願いたい(怒)
まぁ、裏にある建物が、約3年前の雪で、
見事な迄にブッ潰れてしまったんで、
その修復費用を捻出しなけりゃならないのは
十分理解出来るのだが…
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